2013年11月29日金曜日

11. ルアンプラバン

11日目 ルアンプラバン
日本人は、日本人通しでつるむというが、どうだろう、外人も変わらない。英語のしゃべれる者通しがつるんで、大学のサークル活動と変わらないことをしている。

死体のことを考えた。死体って、日常生活において全く役に立たないなぁ。同族を食べる気にもなれないし、放っておいたら腐ってバイ菌が繁殖する。

埋めたり、川に流したり、鳥に食べさせたり、焼いたりと、どうにか処理する。しかし、良心が痛むため、儀式化して、祈りを捧げなることなくしては、葬ることすら出来ない。
増えすぎた人口を減らすために古くから用いられてるまびきの方法が、戦争だとすれば。


川べりで、ラオス人が美味しそうにたばこを吸っている。新しい国に来ると、2.3日たばこが吸えない。昨日も、朝から二本吸っただけなのに、後に嫌な頭痛に襲われた。

あるいは、コーヒーを無しにたばこを吸ったからだろうか。人が淹れてくれればインスタントでも、美味しく感じるから不思議である。

初日にネイチンが持ってきたコーヒーは、プラスチックのカップにインスタントコーヒーだった。砂糖を2スプーン入れたら、それなりに飲めた。もちろん、スイートネスとかアシデティとかマウスフィール、そんなものは皆無だ。だけど、違った美味しさがあるのだ。


こうも色んな国の言葉が飛び交うと、バベルの塔も、決してただのお伽話ではない気がしてくる。言語は排除の効果がある。違う言葉を話す人々が存在する以上、ニンゲンみんな仲良くというのは不可能なのかもしれない。
尊重には、限りがある。

全く変わらない日常に多幸感を感じるだろうか。だいたい同じだけれど毎日少し違う日常が良い?

同じようにやっても毎回少し変わるジャズのような連続性。

アウトプットを意識しないインプットは無意味だろうか。否、身になってこそのインプットである。アウトプットを意識しすぎると、表面を撫でたような理解しか得ることが出来ない。


我々は幽霊を怖がる。ただ、異質というだけの理由で。彼らが我々に死をもたらさなくても、我々は彼らを怖がり、距離を置き、結界をはる。それがそのまま国境となって、………としたら、土着信仰も伊達じゃないのかもしれない。

自分探しの旅。という。
裏返せば、死を見つめる旅なのではないだろうか。


ネカフェ、下調べ。経済、歴史、ラオ。香港、中国、モンゴル、カトマンズ、ベトナムのサイゴン。

コーヒー抽出器具。ミル。

メコン川は石の産地なのだろうか、川肌に並ぶ岩には、直線的な太い線が無数に刻まれている。だとすると、川岸の砂がただれるように崩れていることに合点がいく。水は、浸食し、砂の崖をゆっくり崩す。

船内の外人達はビールのお代わりに余念が無く、15、6歳のラオス人は1時間に一度、床板を持ち上げては大きなビールケースを運んでいた。ローリーですら、隣で大瓶をラッパ飲みしている。

若い外人は大人しく楽しく飲んでいる。
年配の外人は、とても見ていられないほど下衆な飲み方をしている。遺伝子異常のナスのような巨大な腹をシャツで抱えながら、加齢と酒の臭いをぷんぷん撒き散らしながら、歩く。そのうちの1人は、シャツを脱ぎ、ヘミングウェイ気取りで手すりにもたれるが、それがまた気持ち悪いのなんの。牡ウシような白髪交じりの乳首を惜しげも無く振る舞いている。

きめぇ…

ルアンプラバンについた。
犬がいる。困り果てたように、しかし、どこか嬉しそうに歩いている。チェンマイと変わらぬ光景だ。オレンジ色のサリーを着たボーズの子供たちが歩いている。少し若い気がするが、これも、チェンマイと変わらぬ光景だ。
建物は、少し西洋風。屋根のつくりが、まったく違う。チェンマイほど凝った細部が見られない。瓦は丸く、東京駅のレンガの色だ。屋根もいくぶん傾きが急だ。気候がそんなに違うとは思えないが、まぁ何か理由があるのだろう。
ときおり、屋根に数字がかいてある。1964とか、2012とか、25.1.64とか。おそらく、家の年数だろう。
日焼けを抜きにすれば、人々は日本人に似ている。特に女や子供たちはまだ肌も白く、日本人と言われても分からない。

ゲストハウス。相部屋、ローリー。500。安くない。祭り。舟を模した神輿。花、ロウソク、石油の香り。

どい→yes
うー→yes
ぼー→no

さばいでぃー→こんちは
こぷちゃい→ありがとう

らーこん→bye

たおだい→いくら
ぺんだい→高すぎ!

ラオスの少年達と酒を飲んだ。こっちのビールは氷を入れて飲む。

無理を言って、市内をスクーターで見せてもらった。なんてことない。

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