2014年5月30日金曜日

大人の見る繪本 生れてはみたけれど

大人の見る繪本 生れてはみたけれど
小津安二郎



無声映画。初めて観る。
見えないところで進行している出来事の不安さを感じさせられる。

そうか、そもそも映画は無声映画から始まったんだ。
しぐさが見せる意味。お辞儀や、顎をしゃくる仕草、笑顔や距離感、沈黙の間、言葉以外のコミュニケーション。これがいかに重要かが分かる
画面の外にあるものは、即ち存在しないのである。
カメラによって見られたもののみが、存在を許された物なのである。

一方、台詞とは演劇の世界、舞台の世界から生まれた物である。
意図的に再現する演劇。劇的に脚色される演劇。これは、劇場の作り話ですというワザとらしい演出に上ら内された異世界感/観。

映画は、日常を炙り出すもの。これは本当のお話です。

視点の恣意性。ムーブメント。



どうして太郎ちゃんのお父さんは重役で、お父ちゃんは重役じゃないんだい?

いくらぶったって、偉くないものは偉くないんだ。

納得?
この問題は、これからの子供には死ぬまで一生ついてまわるんだ

これからも一生侘しく爪を咬んで暮らすのか
俺みたいなやくざな会社員にならないでくれな

お前たち
大きくなってお父ちゃんよりも偉くなれば良いじゃないの
お前は大きくなったらなにになるんだ

どうして大将にならないんだ

お父ちゃん御辞儀した方が良いよ


偉い。ね。




良一、啓二のお父さんは、重役の岩崎の近くに引っ越して出世のチャンスをうかがっている。だが、兄弟の前では厳格そのもの。引っ越しで転校した兄弟は早速地元の悪ガキグループと喧嘩した揚句、鬱陶しくなって小学校をずる休みするも担任の家庭訪問で知られ、二人は父さんから大目玉。そのうち悪ガキ仲間と友達になり一緒に遊ぶようになる。その中には岩崎の子供もいる。ある日、みんなで「うちの父ちゃんが一番えらい」と自慢する話が出る。兄弟も自分の父親が一番えらいと信じて疑わなかったが、ある日、岩崎の家へ行って見せてもらった十六ミリ映画の中で、父は岩崎の前でお世辞を言い、動物のまねまでしてご機嫌伺いをしていた。怒った二人は食事も取らず、またしても学校をサボって抗議する。しかし、その抗議も長続きせず母のとりなしで兄弟は夕食を食べて寝る。父も子供の寝顔を見ながら、家族のためとは言いながら子供を絶望させたことを後悔する。翌朝、いつものように父と兄弟は一緒に家を出る。