フィルムで撮ることに大切な意義があったとして、デジタルで撮ることには意味が無かったりする構造は、
描くことに意義があるのに、フィルムで撮って済ませたりする構造に似ていたりする。
私がこだわっているフィルムという手段は、所詮懐古主義以上の何ものでも無いのかもしれない。
撮ることの意義は、目を向けることの意義になり、目を向けることの意義は、考えることの意義になったりして
考えることの意義は、より善く生きるための意義だったりするのかもしれない。
より善く生きることは、報いや救いに繋がっていそうで
それらは原罪に基づいたりしていて、原罪は実はフィクションだと思う。
そのフィクションは砂漠で生きるための処世術に過ぎず、結局のところ、弱者がいかにして遺伝子を残すかという、知恵の一つのかたちだったりするのかもしれない。
それらは特定の条件の下、普遍性を帯びるため、なにも常に腹を見せる必要は無いのである。
先人の教えには、半信半疑の距離感が丁度良い。
まぁ、そうやって、意義は妥協し、文化の上流と下流が曖昧に揺らいで、価値が妥協されるのである。
さて、話を戻すと
フィルムの意義は存在するのだろうか?
さらに言えば、写真の意義は?
芸術の意義は?
イメージの意義は?
遡れば、
答えは、生きることでは無いだろうか。
永遠に生きるための処世術。