2016年2月17日水曜日

妥協する意義

フィルムで撮ることに大切な意義があったとして、デジタルで撮ることには意味が無かったりする構造は、

描くことに意義があるのに、フィルムで撮って済ませたりする構造に似ていたりする。

私がこだわっているフィルムという手段は、所詮懐古主義以上の何ものでも無いのかもしれない。

撮ることの意義は、目を向けることの意義になり、目を向けることの意義は、考えることの意義になったりして

考えることの意義は、より善く生きるための意義だったりするのかもしれない。

より善く生きることは、報いや救いに繋がっていそうで

それらは原罪に基づいたりしていて、原罪は実はフィクションだと思う。

そのフィクションは砂漠で生きるための処世術に過ぎず、結局のところ、弱者がいかにして遺伝子を残すかという、知恵の一つのかたちだったりするのかもしれない。

それらは特定の条件の下、普遍性を帯びるため、なにも常に腹を見せる必要は無いのである。

先人の教えには、半信半疑の距離感が丁度良い。

まぁ、そうやって、意義は妥協し、文化の上流と下流が曖昧に揺らいで、価値が妥協されるのである。






さて、話を戻すと
フィルムの意義は存在するのだろうか?
さらに言えば、写真の意義は?
芸術の意義は?
イメージの意義は?


遡れば、
答えは、生きることでは無いだろうか。

永遠に生きるための処世術。