2014年1月17日金曜日

99. ローマへ

99.ローマへ
神のさじ加減に踊らされるしかない。神は絶対だからではない。神は絶対ということを信じているからである。
6時から12時までの睡眠。
目を覚ましては、タオル生地のような毛布の柔らかさを確かめ、いびきをかいた。
いよいよ電車の時間が迫っていた。
体を起こし、足の裏に床の冷たさを感じながら洗面所まで歩く。顔を洗った。
着替えを済まし、大きなバックパックを背負ってOとBARで朝めしを食べた。トマトとモッツァレラチーズのパニーノ、食後にはカプチーノに砂糖を10g入れて飲んだ。


結局、有名な美術館には行かず。彼はこの街を出ることになった。


彼は、他人の所有物を奪った悪者、という認識しかされていないようだ。
その人の理屈では支え合いこそが目的らしい。その理屈は、愛しているからという理由は答えになってない、と唾棄しているように彼には響いた。
彼は窓際に座った。253キロで走る列車。景色は立体的だった。
中国人らしき若い夫婦が、通路を挟んで別々に座った。男は麻でできたブルーのセットアップ、裏地は若いコンクリートのような鼠色をしていた。赤のセーター、梅の色をしたチタンの眼鏡、前髪はキャップのつばのように長かった。
青い缶のビールを飲みながら、隣の男が景色を独り占めしているのに腹を立てているようだった。苛立たしげにビールをちびちび飲み、ため息交じりにげっぷをした。ギア通しが空回りしているような生理的な反射といったところか。空気が漏れるたび、生温かくなったビールの匂いが彼の鼻をついた。
男は座席に刺してあるカタログを引っ張り出し、憂さ晴らしに英語以外の挿絵を眺めはじめた。引っ叩くように乱暴にページをめくり、再びげっぷした。俺は今イタリアに来ているのだ、という自負。
女は、美しくはないが、愛嬌のある小柄なショートカット。プライドの強いこの男が、妥協して選んだ結果という気がした。
緑の畑。朽ちた小屋。苔の生えた屋根。色は黄土色だった。
米をこぼしたように散らばる羊たち。緩やかな傾斜の緑色の地面。示し合わせたようにそろって地面に口をつけている。
道もタイヤの跡もない草原に停めてある白い車、不自然な、不釣り合いな、まるでおもちゃ、
トンネルに入る度、空気が薄くなって、耳に強い違和感
都市と都市を結ぶエクスプレス。田舎にレールが引かれる。しかし、駅はない。都市にとって、田舎は通過、省略すべき、意義なき空間に過ぎない。
ローマのホームレス。より善く暮らす気はさらさらない。彼らにとって、家とは一時的な存在でしかないのだ。借りぐらし。吹いたら飛ぶ家。
変わりたくないけど、止められない。私はちっぽけ。だが確かな存在。
6時すぎて、ようやく彼は外に出かけた。メトロは薄暗く、汚れていた。ローマの照明は愛がない。薄い蛍光灯の色。波長が長く、ちかちかと目に付く。
満月は濁っていた。
壁はデカい塀だろうか。
スピノザは神を「実態」として位置づけた。
存在するために自己以外の根拠を必要としないのは唯一神のみであり、神以外の全ては内在的に神を存在根拠とする神の「様態」である。神は「動力因」となり、全てを必然的に決定する。


さて、彼は22時に6ユーロのアラビアータと3.5ユーロのハウスワイン2.5mlを飲んだ。

マンホールもトレビの泉もたどり着けなかった。彼はこの後、宿に帰って眠る。

そうそう、今日は3回目の満月だったらしい。

98. フィレンツェ

98. フィレンツェ
どんなに高くて大きな建物でも、それより高いところに行くと、途端にちっぽけな存在と化してしまう。
高い視点。見下ろす俯瞰。彼らの行動は些末なおろおろ。彼らは見られているとも知らず目の前のことに没頭している。
いや、彼らは感じている。視線を。しかし、身近な上司の視線を感じている。その上司を見下ろす視点が存在することを夢にも思わない。知らないのだ。
アメリカの猫は大体不幸だ
行く川の流れは絶えずして、しかも元の水にあらず。よどみに浮かぶ泡沫のかつ消えかつ結びて常に留まるところを知らず。
泡沫は泡沫という存在ではなく、ただの状態である。
有機物である彼もまた落合賢治という存在ではなく、落合賢治という状態なのである。
そうだ、この街には、この地域には死がないのだ。日常から切り離された死はどこに揺蕩うのか。
かの国では、死は人々のすぐそばにあった。死を直面して初めて、真の喜びは湧き出る。
この国は嘘つきだ。嘘を突き通す気だ。絶対的な神の存在を盾に嘘に完全性が帯びる。死を否定したバッカスの国。
かの国の破壊の神は、酒の酩酊状態無くして、確信的に破壊をする。それは彼の役割なのだ。踊り、響き、リズムは止められない。ただ運命に従い、破壊を実行するのである。破壊は彼の哲学から生じた純粋な知恵であるから。
蛇に誑かされた砂漠の神と、蛇を支配した青い神との違いである。
砂漠の神は、根を張れなかった。踊りの神は、土、水、火、空気、全てに根を張った。
肉体は普遍的だが、服は普遍的ではない。という。
想像よりも強く早く現実が飛び込んでくる。
歩く枯れ木のような観光客でいっぱい。
ひとつ、私は何者かになる。彼は何者かになる。
私を見よ。私を見よ。私を見よ。
あらゆる神が見ることを要求してくる。実際、神々はセンセーショナルなため、目を奪われる。
彼がそれを見る時、彼の脳裡には、見たものが映る。彼の意識はそれで満たされる。結果、彼は彼ではなくなる。神々は言う。私が貴方を救う。だから、私を信じて、私から目を放さないようにしなさい。と。
はい、信じます。私は貴方と同化します。同化するよう精一杯務めます。没我。彼は敬虔であればあるほど、多幸感に満たされる。
だが、多幸感は一時的だ。神のさじ加減に依存する。神は麻薬である。
没我。
一方、彼が彼自身を見るとき、彼は彼ではなくなる。目をつむり、自身を見る。こちら側の世界。彼だけの世界。一般に人々、夢の中以外で意識することの出来ない世界。すると、彼は知る。自分が自分ではないことを。自分が普遍的な存在ではないことを。知る。
彼は常に変わり続ける。外部的なあらゆる存在によって。
彼は、その真理から逃れることは出来ない。
旅先では、そういった類の悩みを抱えている人とよく出会う。
だが、気をつけておきたいのは、そういった類の悩みは誰しもが持っているということだ。旅人だけではない。旅人にそういった人が多いのは、彼らがそれをよく自覚しているだけのことである。
未経験に染みる初体験ほど瑞々しいものはない。
Oと酒を飲む。
バラ売りも ハンサムだったら 買うのにな
結局、カラダを張る仕事の成果は肉体の質に比例するのだ。