2014年1月17日金曜日

98. フィレンツェ

98. フィレンツェ
どんなに高くて大きな建物でも、それより高いところに行くと、途端にちっぽけな存在と化してしまう。
高い視点。見下ろす俯瞰。彼らの行動は些末なおろおろ。彼らは見られているとも知らず目の前のことに没頭している。
いや、彼らは感じている。視線を。しかし、身近な上司の視線を感じている。その上司を見下ろす視点が存在することを夢にも思わない。知らないのだ。
アメリカの猫は大体不幸だ
行く川の流れは絶えずして、しかも元の水にあらず。よどみに浮かぶ泡沫のかつ消えかつ結びて常に留まるところを知らず。
泡沫は泡沫という存在ではなく、ただの状態である。
有機物である彼もまた落合賢治という存在ではなく、落合賢治という状態なのである。
そうだ、この街には、この地域には死がないのだ。日常から切り離された死はどこに揺蕩うのか。
かの国では、死は人々のすぐそばにあった。死を直面して初めて、真の喜びは湧き出る。
この国は嘘つきだ。嘘を突き通す気だ。絶対的な神の存在を盾に嘘に完全性が帯びる。死を否定したバッカスの国。
かの国の破壊の神は、酒の酩酊状態無くして、確信的に破壊をする。それは彼の役割なのだ。踊り、響き、リズムは止められない。ただ運命に従い、破壊を実行するのである。破壊は彼の哲学から生じた純粋な知恵であるから。
蛇に誑かされた砂漠の神と、蛇を支配した青い神との違いである。
砂漠の神は、根を張れなかった。踊りの神は、土、水、火、空気、全てに根を張った。
肉体は普遍的だが、服は普遍的ではない。という。
想像よりも強く早く現実が飛び込んでくる。
歩く枯れ木のような観光客でいっぱい。
ひとつ、私は何者かになる。彼は何者かになる。
私を見よ。私を見よ。私を見よ。
あらゆる神が見ることを要求してくる。実際、神々はセンセーショナルなため、目を奪われる。
彼がそれを見る時、彼の脳裡には、見たものが映る。彼の意識はそれで満たされる。結果、彼は彼ではなくなる。神々は言う。私が貴方を救う。だから、私を信じて、私から目を放さないようにしなさい。と。
はい、信じます。私は貴方と同化します。同化するよう精一杯務めます。没我。彼は敬虔であればあるほど、多幸感に満たされる。
だが、多幸感は一時的だ。神のさじ加減に依存する。神は麻薬である。
没我。
一方、彼が彼自身を見るとき、彼は彼ではなくなる。目をつむり、自身を見る。こちら側の世界。彼だけの世界。一般に人々、夢の中以外で意識することの出来ない世界。すると、彼は知る。自分が自分ではないことを。自分が普遍的な存在ではないことを。知る。
彼は常に変わり続ける。外部的なあらゆる存在によって。
彼は、その真理から逃れることは出来ない。
旅先では、そういった類の悩みを抱えている人とよく出会う。
だが、気をつけておきたいのは、そういった類の悩みは誰しもが持っているということだ。旅人だけではない。旅人にそういった人が多いのは、彼らがそれをよく自覚しているだけのことである。
未経験に染みる初体験ほど瑞々しいものはない。
Oと酒を飲む。
バラ売りも ハンサムだったら 買うのにな
結局、カラダを張る仕事の成果は肉体の質に比例するのだ。

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