2013年12月31日火曜日

69. デリー

69. デリー
7時ごろにデリーにつく。
広い駅だった。
さっそくリシュケシュまでのトレインチケットをとってしまおうと駅をうろうろしていると、案の定おっさんが話しかけてきた。試しにリシュケシュに行きたいと言ってみると、ついてこいという。コミッション取られるのが嫌だったが、どうもバスステーションに向かっているぽかったので、とりあえずついてゆく。
屋台の様な簡単なつくりの代理店。ハルドワールまで550という。まあ、そんなに悪くはない気がした。値切るのや、あれこれ探すのが急に面倒になり、5分ほど悩んだ顔をしてチケットを買った。450だ。50はおっさんのコミッションだろう。まぁ、美味しいものでも食いやがれ。
鉄道の値段を比較していなかったことが、後悔を生む。少し苛々してくる。
リキシャでバスステーションへ向かう。濃ゆい霧だ。9時だというのに薄暗い。くもり。しかし、空を見上げると、オレンジ色の太陽がくっきり浮かんでいる。肉眼で容易に直視出来るほど光の弱い太陽。たき火のような綺麗な炎の色だ。悪くない。
路地の裏の裏の方に、こっそり隠れるようにバスは停まっていた。これは見つけられっこない。バスステーションで正規料金で安く買おうと思っていたが、これは無理だ。
バスのほとんどはインド人で、オーストラリア人の親子が一組いた。女2人旅、しかも親子か。微笑ましい。
今は太陽は栄養の無い卵の黄身のような頼りない寝ぼけた光で、霧の空にくっきりと輪郭を見せびらかしている。
インドの交通状態は相変わらずカオスだ。クラクションとダミ声のエンジン音が響く。もう慣れた。カオスに見えるが、彼等は彼等のルールでやっているのだ。どこの世界にも、その世界の法、自然の摂理といったものがあるのだ。
では、全世界の法というものはあるだろうか。ある。抽象的だが確実な法が。それは、我々は人間だということだ。生き物なのだ。
自分がゴミになると、ゴミに囲まれて死ぬ。自分が花になると、花に囲まれて死ぬ。
インドは色々な音を持っている。彼等は音中毒だ。マンダラの響きに飢えているのだ。
幸せの形は似通っているが、不幸せの形は様々だ。アイデンティティの確立に苛まれ、個性を持つことを強迫観念として植え付けられ、人々は自ら進んで不幸せの種を溜め込んでいる。積極的に自己を複雑にしているのだ。
そしてあえて回りくどい自己開示をする。そんなに簡単に分かってたまるものか。私には価値があるのだ。
本当に価値があるのだろうか。そもそも需要がないのではないか。売れ残ったと感じた人々は強迫観念に苦しみ続ける。
そして今度は、板挟みの原因は自分が蒔いた種だというのに、価値を認めない他者を呪い始める。
いつまでも心が休まることはない。自分と似た仲間とチルアウトしていると、傷の舐め合いと言われ、帰り道で救いようのない惨めさに襲われる。
目的地はどこなのでしょう?
部分の集合によって世界が構成されている。インドの世界観。すき。
Take away Chinaという名のレストラン。
鎌を失くしたカマキリのような傲慢さ。
現在の知覚はとても難しい。少し過ぎた過去を瞬間的に知覚することしか出来ないのではないか。ありのままに見える景色は、流れて見える。近くにあればあるほど。遠くのものは、とまってみえる、気付いたら過ぎている。
家のように立派な木。アシュラム。

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