2014年1月31日金曜日

109. 千葉

109. 千葉
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彼の家は千葉にある。
今日、彼は11時に目を覚ました。
駅は、いつも何かしらの音を発していた。プラットフォーム全体に響くうるさすぎないアナウンスや、電子音。発車の音楽。人々は急いで電車に乗る。
不思議なのは、電車に乗ることに急いでいるのは日本の人々だけではないということ。ノルウェー、ロンドン、イタリア、どの国の人々だって、電車に乗り遅れまいと、神経を張っているのだ。
無駄なことを排除して、排除して排除して。
人々はみんなさみしそうに見える。ペットショップのふてくされた犬のよう。きょろきょろと、他人が動く様を目で追う。
I'm not a kid. I ask for a stranger.
日本語は難しい。
日本人ですら、何かを伝えることに苦労をしている。言語であるのに。言語は便利なものであるはずなのに。
いや、日本人が苦労しているのは、言語以外のコンテクストだ。
ボディランゲージは分かりづらく、態度という繊細な形で現れる。そしてそれは大切である。
そういったコンテクストを損なうと、評判を落とす。評判は、社会で失敗しないために非常に大切である。
相手が良い奴が悪い奴かといった客観的な質は問題ではなく、自分が相手を好きか嫌いか。で他人を判断する人もいる。
本当に色々な人がいて、偏見に取り憑かれている。
偏見。偏る見る。見る。
放射能こわいという、人々の意に反して、「ふくしまの米できました」という広告がひとつの皮肉も無く、電車の広告で流れる。
日本だけではない。むしろ、海外において、私は様々な情報を排除し、無視してきた。
しかし、触れるものの一つ一つが初体験という振動をもって彼を響かせため、妙な新鮮さがあったのだ。
そういえば、バスの窓は自分を映す鏡とかいうけど、窓のないトゥクトゥクやリキシャはどうなんだ?
会社説明会は、その会社がどれだけ魅力的か、抱いていた期待を納得させるものだった。
帰りの電車、彼は不思議な感覚に飲み込まれた気がした。
あの頃に、戻ってきた感覚だ。ここはみなとみらい。ここは横浜。ここはJRの車両の中。彼が今まで日本で貯めてきた記憶、偏見、考え方、感じ方。そんなようなもの。空気が薄いのに気付かない感覚。脳の一部が眠っている感覚。トイレの鏡でで髭の生えていないボーズの男を見たせいだろうか。
再び自分が自分ではなくなる感じがして、彼はふと少し落ち込んだ。彼にはひげがあった方が、自分らしく思えた。そして実際、ひげのない彼はひどくナイーブに見えた。
彼は急に恋人が恋しくなった。良い匂いを感じたからだろうか、何もかもが許されない国に戻ってきたからだろうか。この国は彼が、彼の思考を通して感じることを禁止している気がした。主体的に思考することが不可能なのは知っていた。しかし今や、客観性がもっともっと暴力的な恣意性を持っている気がした。
うざったい広告の言語を捉えてしまっては、意味を想起せざるを得ない。恣意性の排除はもっと容易なはずだった。美しさとは無縁のイノセントを気取った雑多な情報が彼の脳に無理矢理意味をぶち込んでくる気がした。他意はない、といった顔でいちいち彼を苛立たせた。
実際、気の利かないうざったいそれらは、非情なことに日常化するのだろう。持たないことを暗黙のうちに否定してくる所有の見せびらかし。
目を奪われる人々。
しかし、それらは客観的に決して美しくない。彼には、それらがひどく滑稽に見えた。そしてその姿は悲しくもあった。
世界観の構築は、自分自身で行うべきだ。
今や彼は、テレビや新聞が構築した世界観を丸呑みしている人々を、軽蔑しさえした。
キャラクター。美しくなく、傲慢なキャラクター。認知されて生き永らえるキャラクター。

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