2014年1月6日月曜日

86. ブダペスト

86. ブダペスト
朝、7時に目が覚め、歩いて5分のパン屋でりんごのパンとリコッタチーズのパンを買う。昨日の婆さんではなく、彼女より若い女が店を開けていた。
宿でコーヒーと一緒に楽しんだ。ハンガリーのロースターはレベルが高い。浅煎りのイルガチェフをインヴァートで淹れた。湯温が高すぎたのか、少し過抽出で酸が少なめに出てしまった。それでも香り高く、美味しい部類のコーヒーだった。豆が良ければ、少しくらい間違えても美味しく落ちるのだ。
10時過ぎまでドイツ人は起きなかった。私のイビキのせいだろうか。昨日笑いながら文句を言われたが、あれは半分本気だっただろう。スリープマイスターというアプリで寝言を録音してくれるというので、わくわくしながら聴いてみたら、爆音のイビキが録音されていた。我ながら、少し呆れるくらい立派なイビキだった。歴代の彼女たちは辛抱強くこれに耐えたのだ。もはや原罪だ。
ドイツ人が起きてきたタイミングで、パスタをつくった。昨日のタマネギの余りを炒め、オレガノとバジルや胡椒をふんだんに振りかけ、チーズやトマトソースを加えて、乳化を待ちながらスプーンでフライパンをかき混ぜる。
火力が弱いのか、結局乳化はせず。湯から上げたてのパスタをフライパン上のソースと馴染ませ、大きな皿で食べた。
ドイツ人は、もう料理してんの?と驚いていた。朝飯だと思ったらしい。ソースが余ったので、ボウルに移し湯を加えてスープにしたが、油を吸ったオレガノが表面に浮かんで、さながら放置された庭の池を連想させた。
チェックアウトを済ませ、バスターミナルの倉庫に荷物を預け、カフェへ向かった。
ロバート・キャパ
彼はカメラを腹部付近に構え、上から覗くようにしてシャッターを切っていたようだ。被写体の目線がこちらよりも上を向いているのを見れば分かる。
今見ているものの延長と言うより、第三の目を持つ感覚に近いだろう。
撮られる人は、キャパがこっちを見ているというより、カメラマンという物体が何やらこっちを撮影しているらしい、といった様子だ。結果、写真はカメラに向けられた緊張感は在らず、人々がその時に感じている緊張感で満ちている。
彼は、言わば「覗きマン」だ。自分の存在を消して、そこに潜み、彼にしか見えないものをただ記録する。
彼は名前を変え、人格・肉体から離れ、純粋意思に還元され、幾つもの立場を演じたのだ。
そういった特殊性を踏まえてか、彼について語る時、みな口を揃えて「彼は何者だったのか?」と今更ぶって疑問符を打つ。
彼の残したセンセーショナルな作品にも増して、「見る」という行為について意識せざるを得ない。
見る。私は見る。
全てを見通す俯瞰は、決して部分の詳細を知ることは出来ない。「神は忙しい」と語られる所以である。
部分に目を向けるや否や、ありとあらゆる部分たちがどんどん目に飛び込んでくる。さっきまで気が付かなかった新しい部分が、脈絡なしにどんどん「見せて」くるのだ。
見るという行為は、半ば「見せられている」という行為と不可分である。
また、見ていようと見ていなかろうと、肉体ある以上、「見られている」のだ。
隠れるとは?部分の集合のパターンを真似て、存在を部分に紛れ込ませること。
カメレオンの擬態。虫の擬態。自らの存在を周りに馴染ませる。これが隠れること、、、!?
続けろ。
カフェ。トートバッグをくれた。
アンバサダーは閉まっていた。
足が痛い。右足をかばって歩いていると、足の裏側も痛み出した。
バスターミナルで、靴下を脱いだ。臭い。隣の女子2人組は笑い出した。2人ともイヤフォンをして別々のことをしているから、笑いの原因はこれだろう。
英語ではないので、何を言っているのか分からないが、参った。今さらどこか別の場所へ移動するのも気まずい、出来ればこっちも笑いに乗りたいが、1人なので道化を演じ続ける他はない。
時にこう思う。自分は人一倍、滑稽なことを気付かずにやらかしている。寝ている間に爆音のイビキをかいたり、どもったり、独り言を言ったり。
それでも、こんな私のことを愛してくれる人はいるが、知らぬ間に滑稽さを買われていると思うと、少し惨めな気持ちになる。
果たして、そうなのか。みんなが私を笑いものにしているのか。
そんなことはないと信じたい。
息が臭かったり、笑い方が気味悪かったり、太っていたり、はげていたり、足が臭かったり、白髪が多かったり、眉が太かったり、歩き方が変だったり、服装がダサかったり。
色々な人が、色々な滑稽さを抱えたまま生きている。しかし、私は禿げてる人を取り立てて笑いものにしたりしない。禿げは運命付けられたものなのだ。そういう人として、禿げの滑稽さを無視して、私は彼等とコミュニケーションを取る。そういうものだ。

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